今日は用事を済まして昼前から高野山に行ってきました。今年2回目です。というか人生で2回目です。何度か親といったことはあるのでしょうが、車で高野山まで行って、そこから歩くことがなかったので高野山を感じた幼少期の記憶はないのです。今日は水泳に行かなかったので思いっきり歩こうと思っていましたが、2時間弱ではそれほど疲れません。奥の院までのメインストリートから離れている山道を見つけては用もなく、人っ子一人いない山の斜面を上って行っては下ってくるということを何度もしては体を疲れさせました。
日曜となるとここは大変な人盛りです。今、NHKでタモリの番組で高野山が特集されています。そのせいもあってかなかなかのにぎわいです。外国人観光客も多いです。
前回行ったのは6月末の平日。5時ころにはほとんど人通りもなく寂しさすら感じました。早く帰らなければという気持ちにかられましたが、今回は夕方4時を過ぎでも人影は絶えることがありませんでした。静かな気持ちになって自然の中で「無」になりたいと思いますが、これだけ人がいるとそれもかないません。聖地ではなく、まるで観光地です。
今回は、前回いけなかった正智院に行きました。閉館前の夕方だったので人もほとんどなくここだけは別世界でした。最古のものは奈良時代、鎌倉時代や室町・南北朝時代の絵巻物や古文書それに仏像が中心に展示されていました。薄暗い照明のせいもあって仏像がとても神秘的に荘厳に見えました。その表情に吸い込まれてしまうような美しさを感じました。昔の人はこういうものを拝むことで心の平安を保ったのでしょう。そしてそれが唯一、最高の幸せだったのでしょう。
様々な雑念で疲れ切っている現代人にとってはまさに癒しの場所です。しばし時を忘れていました。
それでも帰りのことが気になりだし、月曜のことが気になりだし、急いで院を後にしました。
便利で豊かな生活を謳歌していると思っていますが、実は現代人は常に何かに追われて何かに囚われて生きている悲しい生き物かもしれません。
古代・中世の人の時間に対する思い、心の状態は我々に想像もつかないものだったのでしょう。